精神的ジャパニーズドリーム~理念の革命~

   新時代の日本のあらゆる分野において、「精神的ジャパニーズドリーム」を起こしてゆくための根本理念を提示します。

「新時代の芸術家によせて」(5)   天川貴之

 

 偉大なる芸術作品には、すべて偉大なる精神の裏づけがあるものだが、同じく、大自然の川や湖や海などの大芸術の背後には、人間をはるかに超越しながら、なおかつ、人間達を暖かく育み、導かんとする偉大なる精神が存在するのである。

 故に、真に偉大なる芸術を創造せんとする方は、大自然からその形だけを学ぼうとするのではなく、形を形としてあらしめている所の奥なる精神をこそ学んでゆかなくてはならないのである。

 また、大自然を一冊の美学の書として観ずれば、例えば桜の花にしても、何故にあれ程に桜が多くの人々の芸術的感動を誘うのであるかということを考えてみると、それは、桜が一年中咲いているのではなくて、春の到来を告げ知らせる何週間かの間だけ咲いていることにあるのではないかと思える。

 我々は、花が早く散ってしまうことを悲しく思い、時には自然の摂理を恨めしくも思うことがあるけれども、逆に、惜しまれて散ってゆく所にこそ花の美学があるのであり、また、久しく待望されて初めて咲く所にこそ花の美しさがあるのではないかと考えてゆくと、その妙なる演出に感嘆せざるを得ない。

 世阿弥が『花伝書』の中で、「秘すれば花」とその美学の奥義を示され、岡倉天心が『茶の本』の中で、茶道の美学は「隠すことによって美を発見する」ものであると述べられているが、まさしく大自然の叡智は、このような美学の奥義の源になったのではないかと思える程に、巧みな美の表現方法を心得ている。

 

(つづく)

 

 

 

 

 by 天川貴之

 

 

「新時代の芸術家によせて」(4)   天川貴之

 

 かの老子は、大自然の水の中に至上の徳を見出され、そこに、無我なる愛の姿、万物と調和する姿、限りなく謙虚な姿を看取されたのであり、同じような教えを数多くの聖人が水より学びとっておられるのである。これもまた、地球という大生命の崇高なる精神の一部が水となって顕れているものなのである。

 水は、ある時は川となり、ある時は湖となり、またある時は海となり、様々に姿を変えながら我々を教え導こうとしているかに思える。

 我々は、川の流れの中に諸行無常の真理を見出し、川の粒子一粒一粒の中に諸法無我の真理を見出し、無執着の美徳を感じ取ることが出来る。

 様々に悩んだ時に自然と川の流れが見たくなり、川の流れを見ている内に心が安らいでいくように思えるのは、大自然が、川の流れの形をとって我々の精神を大いなる精神へと導いて下さっているからなのである。

 また、湖の静寂な湖面は、地球の心の平静の美徳の顕れであり、海は、万象万物を育み包容する愛の顕れであり、我々は、湖や海の姿に触れながら、その精神に大きな変化を受けているのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 by 天川貴之

 

 

 

 

 

「新時代の芸術家によせて」(3)   天川貴之

 

 地球という大生命は、我々には大きすぎてその全体像をつかむことが出来ない。

 しかし、多様なる生物の一つ一つは、地球の生命の顕れの一つであり、地球の創った一つの芸術作品なのである。

 あらゆる芸術家はその作品において己が精神を語ろうとするが、地球という大生命は、鉱物の中にも、己が精神の一部を託し、草木の中にも動物の中にも、そしてまた、人間の中にも己が精神を語らせているのである。

 沈黙の内なる精神の調べがそこに流れている。それは秘められたる一冊の真理の書であり、また、美学の書でもある。

 古今東西の教えが、よく大自然の一部を使ってたとえ話として語られるのは、その聖人が、大自然の中に無言なる教えを発見出来たからであり、また、それが可能であるということ自体が、大自然が、その内に無数の教えを内在させていることを示しているのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

 by 天川貴之