精神的ジャパニーズドリーム~理念の革命~

   新時代の日本のあらゆる分野において、「精神的ジャパニーズドリーム」を起こしてゆくための根本理念を提示します。

「新時代のスポーツマンによせて」(6)  天川貴之

第九には、礼節ということである。スポーツの世界というものは、人間の戦いの場を、文化化したものであるともいえるが、また、「道」として昇華したものであるといえるが、この要こそが礼節なのである。 礼節なきスポーツマンは、いかに剛く、いかに技に優れ…

「新時代のスポーツマンによせて」(5)  天川貴之

第七には、愛である。これは、自己の訓練を、独り自己満足に終わらせてしまうのではなく、常に多くの観客を喜ばすために、さらには、国威を高揚させる程に、奉仕させていただくという精神が大切なのである。 自分が目立ちたいだけでやっているのは単なる自己…

「新時代のスポーツマンによせて」(4)  天川貴之

第五には、積極的な精神態度である。これは成功哲学の要であるが、それはまた、勝利の哲学の要でもあると言えるのである。 ともすれば、勝負にとらわれて、しかめ面の玉砕精神を持っている方も多いが、実は、かかる心は、負けている心の表情を自らつくり出し…

「新時代のスポーツマンによせて」(3)  天川貴之

第三に、情熱である。情熱とは、そのスポーツを真に好きになる所から生じてくるのである。 そして、また、勝利の目標を設定し、それに対して燃えるが如き願望を持った時に、ふつふつとふつふつと湧き昇ってくるのである。 かかる熱き血潮がなくて、真に勝利…

「新時代のスポーツマンによせて」(2)  天川貴之

これより超一流のスポーツ選手に必要な精神態度について述べてゆきたい。 まず第一に、大和魂というが如き気概である。これがなければ、スポーツにおいて、つらい修行に耐え、勝利の栄冠を獲得することはできないのである。 大いなる精神力の強靱さは、磨け…

「新時代のスポーツマンによせて」(1)  天川貴之

スポーツの中にも理念があり、哲学はあるのである。 スポーツにおける「真」の理念とは、勝利の法則を探究することであり、その中には精神的要素も大きいといえるのである。 また、「善」の理念とは、スポーツマンとしてのモラルであり、礼節であり、倫理で…

「新時代の批評家によせて」(6)    天川貴之

そもそも、真・善・美とは、内なる理念の輝きであり、自らの輝きで照らしみなければ、外なる真・善・美の輝きも見えず、たとえどんなに立派な人物であっても、またどんなに立派な芸術作品であっても、それを批評する人の心に、それを観ずるだけの光がなけれ…

「新時代の批評家によせて」(5)    天川貴之

これより、新時代が求める批評家像、マスコミ像というものは、言葉の力によって良きものを創造してゆくものである。 言葉が本来、無から有を創造する力を持ったものであるならば、この言葉の力によって、次から次へとより真なるものを創造し、より善なるもの…

「新時代の批評家によせて」(4)     天川貴之

かのデール=カーネギーという、アメリカの人間関係の大家は、人間関係の最高の秘訣、人を動かす最高の秘訣を、他人の欠点を責めず、長所を誉めてゆくことにあると述べられているのであり、例えば、家庭生活においても、夫婦の関係が最も悪くなる理由として…

「新時代の批評家によせて」(3)     天川貴之

その反対に、いつも他人の良き所を発見する習慣のある人は、自ずから他人の良い所を自分も身につけ、それに近づかんとしているのであるから、まず何よりも、自分自身がどんどん良くなってゆくし、また、良い所をみつけられた他人も良くなってゆくし、その言…

「新時代の批評家によせて」(2)     天川貴之

すなわち、言葉は、本来、すべてのすべてを創造する力を有しているのであり、霊的直観力が優れた古代人達は、このことを洞察しえたのである。 我々人間も、神に似せて創られた神の子として、神より自由意志と自由創造力を与えられているが、まさしくこの創造…

「新時代の批評家によせて」(1)     天川貴之

物事には、何でも良い面と悪い面がある。批評家とは、通常、良い面をあまり見ずに、悪い面ばかりを強調して酷評する傾向があるが、これは心の法則からいうと、自分自身のためにも、その対象となった方のためにも、また社会全体にとっても益にならず、むしろ…

「新時代の画家によせて」(6)     天川貴之

故に、真に芸術的天才を磨き伸ばさんと志す方は、あらゆるものの中に、常に美を発見しようという努力をしつづけてゆかなくてはならない。 特に、画家の方であれば、我々は、大自然という無数の神の絵画、そして、文化という無数の人間の絵画の中に囲まれて生…

「新時代の画家によせて」(5)     天川貴之

このように、絵画においても、結局の所、表現されるのは自分自身なのであり、自分自身の精神性なのであるということを考えてみれば、絵画の表現力のみならず、観ずる主体の精神性をこそ修練してゆかなくてはならないということがよく分かるのである。 何げな…

「新時代の画家によせて」(4)     天川貴之

このように、観ずるということは、もちろん、自分自身の精神の内にある性質を通して、同じ性質のものを外に見出すということであるから、例えば、ゴッホの描かれた富士が明朗なものであれば、それは、ゴッホ自身の明朗な精神性が富士の内にあった明朗な精神…

「新時代の画家によせて」(3)     天川貴之

もしも人間の内に精神的認識力というものがなければ、この地上にあるすべての意味とすべての価値は失われてしまうことになるであろう。そうすれば、人類のすべての文化、すべての人間性は無と化するに違いない。 しかし、すべての人が、一人の例外もなく、悠…

「新時代の画家によせて」(2)     天川貴之

個展などに行ってみて感ずることは、そこに、その人による個性的なる世界が創造されているということであり、その画家が本当の意味で住んでおられる精神世界とは、かかる絵の世界であるということであり、また、すべての画家は、誰一人、同じ世界には住んで…

「新時代の画家によせて」(1)     天川貴之

絵画とは、それを描く画家の心の風景であり、心の映像なのである。 ある画家の描かれた絵をよくよくみてみると、たとえそれが何ものかを模写しているものであったとしても、全く同じものはどこにもないことに気づく。 すなわち、それは、絵を描いた人の心の…

「新時代の音楽家によせて」(7)    天川貴之

モーツァルトの音楽は、どれも一定の透明感と格調高い美しさを持っていて、どれを聴いても、それが彼特有のものであることが分かる。 彼は、一生を通じて、順境の時でも、逆境の時でも、また、人々に称賛される時でも、非難される時でも、病の時にも、失意の…

「新時代の音楽家によせて」(6)    天川貴之

心情の調べというものは、目に見えるものに表現されなければなかなか分からないものであるが故に、ともすれば我々はなおざりにしがちであるが、心情の調べ程、その人自身が何者であるかを如実に現し、その人の個性を雄弁に語るものはないのである。 外見とい…

「新時代の音楽家によせて」(5)    天川貴之

本来、音楽も、文学も、宗教も、哲学も、その根源においてコトバであるということは、例えば、ヘンデルやバッハが聖書をもとに作曲されていることを考えてみればよくわかる。 もしも、それらが本来的に一なる基盤を持たなければ、イエス・キリストの言動を音…

「新時代の音楽家によせて」(4)    天川貴之

そのためには、自らの悪しき不調和な思いをふり返り、正してゆくという習慣を、常につけなくてはならないことはもちろんであるが、何よりも、偉大なる心情の持ち主に接し、学んでゆくことが大切である。 もちろん、様々な音楽家において、バッハの敬虔さ崇高…

「新時代の音楽家によせて」(3)    天川貴之

リルケというドイツの詩人が、「若き詩人への手紙」の中で、詩を創るための最善の心得として、まず何よりも、自分自身に正直になり、自分自身のありのままの感情を詩にしてゆくことの大切さを訴えておられたが、音楽においても、自分自身の心に嘘をつかずに…

「新時代の音楽家によせて」(2)    天川貴之

人間の感情というものを、よくよく分析してみると、それは、言葉で出来ているというよりも、旋律に近いものであることが分かる。 このような旋律を言葉に翻訳すれば叙情詩となり、音に翻訳すれば音楽になるものなのである。 こうして考えてみると、概して、…

「新時代の音楽家によせて」(1)    天川貴之

音楽とは、決して単なる物理的なる音の響きではないのである。その元にあるものは、心の調べであり、心の旋律である。 心の中に響いている所の音楽的旋律が、形をとって様々な楽器の音色を通して現れたものが、我々の通常聴いている音楽なのである。 かつて…

「新時代の小説家によせて」(8)    天川貴之

新時代の小説家は、こうした神の大小説の原理を知り、その中で、同時に繰り広げられる所の幾つもの人生を知り、崇高なる神の精神の一部を体現した幾多の登場人物を知り、歴史の中において繰り広げられた天衣無縫なストーリー展開を知ること、すなわち、全世…

「新時代の小説家によせて」(7)    天川貴之

そのソクラテスの姿は、イエス・キリストの十字架の姿と非常に酷似したものを感じるが、どこが似ているのかと考えてみると、両者とも、神の意志というもの、神の意図されるストーリー、すなわち、自らの運命というものをよく知っておられ、それ故に、「我、…

「新時代の小説家によせて」(6)    天川貴之

これらの連綿たる崇高な大芸術が、決して偶然には、これ程の統一性をもって出来ないということは、我々が決して偶然に一つの大小説を書くことが出来ないという以上のことなのである。 このような人為を超えた大芸術は、時空を超えて、様々な所で描かれている…

「新時代の小説家によせて」(5)    天川貴之

大きな意味において、この世界を神の小説とみる見解は、ドイツの観念論哲学を大成されたヘーゲルの「歴史哲学」などにおける、「絶対精神の世界展開」という趣旨と一致する。 かかる観点から見れば、世界史とはまさしく神の書かれた小説そのものなのであり、…

「新時代の小説家によせて」(4)    天川貴之

この人間と世界という小説は、人間が創った小説とは異なり主人公自身が作者と同じ生命の一部であって、主体的なる思考力と自由創造力を持って生きていて、その過程で、時にはその創造力によって作者の意図とは離れたことをし、時には作者の意図に適ったこと…