『新時代の経済思想家によせて』(5) 天川貴之
そして、第二に、新時代に求められているのは、理念価値主義的経済思想である。価値哲学においては、アダム・スミスやリカード以降、マルクスに至るまで、経済学は労働価値説をその根底に持っており、価値とは、そこに投下された労働時間によって計られるべきであるとされている。
しかし、よくよく価値の根源を探究してみると、それは「理念」そのものに行き着くのであり、価値の価値ありとされている所以は、結局の所、「理念」というものをどれだけ反映しているかということによるのである。
理念とは、普遍的客観的真理であると同時に普遍的客観的価値でもある。古代ギリシャで価値ありとされた理念というものは、本来、現代日本でも価値ありとされるべきであり、時代や地域、すなわち、時間や空間を超越した価値を体現しているものなのである。
例えば、「古典」を例にとって考えてみても、特定の古典は、何千年もの永遠に近い生命と地域を超えた普遍性を有しているのに対して、洪水の如く、多量にあった書物の大半が歴史の彼方に消えてしまうのは何故であろうか。それは、古典が理念をかなり直接的に反映しており、それ以外の書物がほとんど理念を反映していなかったからにほかならない。
古典が古典たりうるということ自体が、地域や民族や時代を超えて、すべての人類に共通の一なる精神や理念が実在し、この理念なるものが常にその根底に横たわっていたことを証しているのである。
人類には、確実に、普遍的なる価値の法則が実在するのである。現代の経済環境では、理念価値を反映しているものも、理念価値を反映していないものも、労働コストが同じぐらいならば、ほぼ同価格として評価されているが、これは、本来の理念価値を無視した、唯物論的視点だけに基づく経済秩序なのである。
同じく理念とは言っても、その理念の顕現度合には段階があり、また人間の精神性の高さにも、偉人の精神性から平凡な人間の精神性まで様々な段階があるのであり、本来それに見合った価値評価、価格評価をしてゆかなくてはならないのである。
アダム・スミスの説いた所の、需要と供給に基づく価値の物質的経済法則の中においてであっても、かかる理念価値の反映という精神的観点が欠けているといえるのである。
(つづく)