「新時代の芸術家によせて」(5) 天川貴之
偉大なる芸術作品には、すべて偉大なる精神の裏づけがあるものだが、同じく、大自然の川や湖や海などの大芸術の背後には、人間をはるかに超越しながら、なおかつ、人間達を暖かく育み、導かんとする偉大なる精神が存在するのである。
故に、真に偉大なる芸術を創造せんとする方は、大自然からその形だけを学ぼうとするのではなく、形を形としてあらしめている所の奥なる精神をこそ学んでゆかなくてはならないのである。
また、大自然を一冊の美学の書として観ずれば、例えば桜の花にしても、何故にあれ程に桜が多くの人々の芸術的感動を誘うのであるかということを考えてみると、それは、桜が一年中咲いているのではなくて、春の到来を告げ知らせる何週間かの間だけ咲いていることにあるのではないかと思える。
我々は、花が早く散ってしまうことを悲しく思い、時には自然の摂理を恨めしくも思うことがあるけれども、逆に、惜しまれて散ってゆく所にこそ花の美学があるのであり、また、久しく待望されて初めて咲く所にこそ花の美しさがあるのではないかと考えてゆくと、その妙なる演出に感嘆せざるを得ない。
世阿弥が『花伝書』の中で、「秘すれば花」とその美学の奥義を示され、岡倉天心が『茶の本』の中で、茶道の美学は「隠すことによって美を発見する」ものであると述べられているが、まさしく大自然の叡智は、このような美学の奥義の源になったのではないかと思える程に、巧みな美の表現方法を心得ている。
(つづく)
by 天川貴之