「新時代の映画監督によせて」(6) 天川貴之
我々は、どんなにつまらない人生のように自らの人生が見えたとしても、その一つ一つの中に実は神の生命が輝いていたのだということを発見してゆかなくてはならない。
物質的にも、精神的にも、我々は神の法則の下にあり、神の掌の上に乗せられるようにして、我々の人生の花は、その種を蒔かれ、茎を伸ばし、花を咲かせ、果実を実らせ、そして、次なる種を残して枯れていくのである。
たとえ、人生において、悲しいことが多く、苦しいことが多かったように見えても、それをただ悲しいだけで終わらせてしまい、その苦しみをつまらない苦しみだけに終わらせてしまったのは、他ならぬ自分自身なのである。
悲しみと見えしことの中に神の導きの手を見出し、神の救いの手、神の栄光の手を見出すことの出来た人にとっては、もはや、その悲しみと見えしものは、大いなる光明以外ではなくなってしまうのであって、こうして人生を観ずることが出来る時に、その人は、神の光明の生命そのものに輝いているといえるのであり、その人の人生は、神の光明の芸術そのものに輝いて観えるのである。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)