精神的ジャパニーズドリーム~理念の革命~

   新時代の日本のあらゆる分野において、「精神的ジャパニーズドリーム」を起こしてゆくための根本理念を提示します。

「新時代の映画監督によせて」(5)   天川貴之

 

 人間とは、内なる自分と外なる世界を一体のものとして受け入れなければならない存在であり、例えば、外なる壁を押した時に、その反作用を受けるように、また、ピアノの鍵盤を押した時に、様々な音が鳴り響くように、我々は、自ら為したことの結果を、ある時は、壁の圧力のように運命の逆境として受け、ある時は、ピアノの音のように運命の芸術に抱かれながら人生を織りなしてゆく存在なのである。

 そして、運命に彩られる一瞬一瞬は、それがその人に対する神の法則の応えであるという所において、どれをとってみても、それは神の偉大なる芸術と観えるのであり、もしもこの神の運命の糸を見抜けなかった時には、その荘厳なる芸術は、限りなく卑小化したものに見えてゆくのである。

 故に、人生を描く時に、それを偉大なる芸術へと為すものは、何よりも人生を観ずる「理念の眼」であり、人生の中に神の芸術を観ずる「理念の眼」なのである。

 神を観ずる人にとっては、人生はすべて神の業に見えるのである。

 神の見えざる手が、人間を限りなく崇高なるものの方へと導く姿が、そして、神が人間を通して偉大なる芸術を創造されんとする姿が、あらゆる悲しみの中にも、あらゆる苦しみの中にも、あらゆる喜びの中にも、あらゆる感動の中にも、あらゆる失敗の中にも観えてくるのである。

 かかる人にとっては、すべてのすべては神の生命の顕われ、神の心の顕われ、神の光の顕われ、神の芸術の顕われ、そして、すべてを超越した絶対的なる悦びと絶対的なる栄光の顕われに観えてくるのである。

 (つづく)

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

「新時代の映画監督によせて」(4)   天川貴之

 

 人生とは、いわば神との対話の連続である。神の応えは、常に運命という形で自分自身に降りかかってくるのである。

 かつて老子が、「天網恢恢、疎にして失わず」と云われたことの真意は、まさしく、この神の業の法則について云われていたのである。

 どんなに小さなゴミのようなものであってもすべて重力の法則が平等に運用されるように、いくら巧みに他人に知られないように悪事を働こうとも、必ず、それに対する反作用を人生のいずれかの時点で受け継ぐようになるのである。

 聖書の中において、「播いた種は刈り取らねばならない。」、「与える者は与えられるであろう。」、「許す者は許されるであろう。」、「憐れむ者は憐れまれるであろう。」、「剣を取る者は剣によって滅ぶであろう。」等と述べられているように、自らの人生と運命を、また、歴史上のあらゆる人生と運命を一つ一つ眺めてみると、そこに何一つ例外がないことに気づくのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

「新時代の映画監督によせて」(3)   天川貴之

 

 近代において最大の戯曲家であるシェークスピアもまた、その悲劇を書かれる時に運命に翻弄される人間をテーマにされたが、ソフォクレスシェークスピアを最高の戯曲作家たらしめているのは、技術的なものではなくて、その奥にある人生と人間、そして、それを貫く運命そのもの、いや、神の業の法則そのものに対する洞察の高さ、深さ、広さなのである。

 かかるものが神の法則を穿つものであったからこそ、幾万幾億の戯曲が創られた中で、彼らの戯曲のみが永遠に語り継がれ、永遠に時代と地域を越えて人々の魂を奥深く感化し続けるのである。

 このように、我々は、常に自らの言葉と思念を主体的なる自由に基づいて発することが出来るし、主体的に自らの人生を形創ってゆくことも出来るが、同時に、その一つ一つに対する神の法則による応答があり、神の応答に基づいて、我々は人生の方向を決定づけられていっているのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)