「新時代のスポーツマンによせて」(6) 天川貴之
第九には、礼節ということである。スポーツの世界というものは、人間の戦いの場を、文化化したものであるともいえるが、また、「道」として昇華したものであるといえるが、この要こそが礼節なのである。
礼節なきスポーツマンは、いかに剛く、いかに技に優れていようとも、優れたスポーツマンとはいえないのである。強くなればなる程に、その技が完成すればする程に、礼節を高めてゆかなければならないといえるのである。
礼節とは、スポーツマンとしての気品であり、高貴さであるといえるのである。スポーツマンとして自然なる魂の高貴さが漂ってきて初めて、真の王者となることが出来るのである。
第十には、「永遠の今」に生きるということである。一瞬の中に永遠を感じる体験こそが、スポーツマンの至高経験の瞬間といえるのであり、これを少しでも多く経験してゆくことが、最高の境地へと登ってゆく道なのである。
そして、常に「永遠」を心底感じとれるが如き瞬間を、競技の内に起こせるようになった時に、その人は、永遠の香りを多くの人々に垣間見せることの出来る永遠のスターとなっているといえるのである。まさしく、星の星たる所以は、その永遠性にあるといえるのである。
真に時代が高揚する時というのは、スポーツの世界もまた、時代の旗ふり役として大いに高揚し、きら星の如き選手が出現してくるものである。
かつてギリシャのアテネが最も高揚した時に、オリンピックが最も高揚し、数多くの歴史に残るスポーツ選手が輩出したように、新しきジャパニーズドリームの先導役として、数多くのスポーツ選手達が、真に、善に、美に活躍されることを、希望の念いで見守っている。
(おわり)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)
「新時代のスポーツマンによせて」(5) 天川貴之
第七には、愛である。これは、自己の訓練を、独り自己満足に終わらせてしまうのではなく、常に多くの観客を喜ばすために、さらには、国威を高揚させる程に、奉仕させていただくという精神が大切なのである。
自分が目立ちたいだけでやっているのは単なる自己顕示欲でしかないが、多くの人々のために奉仕してゆくことは、それは、愛なのである。
大いなるサービス精神の発露としての愛を体現されている選手は、万人から愛されるのである。
その優れた技の輝きは、大いなる愛の光を纏った時に、最高の光となって結実するのである。
結局の所、そのスポーツ選手の成果とは、どれだけ多くの人々を喜ばせ、勇気づけてさしあげることが出来たかという点において測られるのである。
第八には、美である。神が人間にスポーツを予定して創造されたということは、どの技も最高度に洗練されたものは美しいということでわかるのである。
最高の機能的有効さが、最高の美の完成として顕れるということは、それは、人間の芸術そのものである。
男性の場合はより雄大なる美しさとして、女性の場合はより優美なる美しさとして顕れる。
また、その人その人の個性的美しさというものもあり、かかる美しさを発見し、追求してゆくことも大切なことであると言える。
「新時代のスポーツマンによせて」(4) 天川貴之
第五には、積極的な精神態度である。これは成功哲学の要であるが、それはまた、勝利の哲学の要でもあると言えるのである。
ともすれば、勝負にとらわれて、しかめ面の玉砕精神を持っている方も多いが、実は、かかる心は、負けている心の表情を自らつくり出しているのと同じなのである。
勝負にあたっては、「必ず自分は勝利するのである」という、積極的で、肯定的で、明るい精神態度を持たなくてはならないのである。
第六には、信念である。どのような困難に遭遇しようとも、どのような壁が立ちはだかろうとも、決して後退することなく、己が道を前進しつづけるという決意である。
そして、自らの道に全身全霊を賭けて打ち込んでゆくという精神態度が大切である。
まさしくこれは立派な「道」であり、自己の個性を体現した理念ある目標を設定し、これをどこまでも追求してゆくことである。
かかる「道」を発見し、「道」に最期まで生ききろうとする所に、最高の信念が生じてくるのである。
己が道を信じ、それを念いとして放射し続けることが、大いなる精神エネルギーとなってその方を成功させ、立派な選手として成長させてゆくのである。
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)