精神的ジャパニーズドリーム~理念の革命~

   新時代の日本のあらゆる分野において、「精神的ジャパニーズドリーム」を起こしてゆくための根本理念を提示します。

「新時代の芸術家によせて」(8)   天川貴之

 

 ルソーが『エミール』の冒頭で「万物を創る者の手を離れる時、全てのものは善いものであるが、人間の手に移ると全てが悪くなる。」と述べられたように、我々は、多かれ少なかれ、大自然の一部として、大自然を模倣して芸術を創造しようとするが、自らの心が大自然の心から離れて、大自然の崇高なる芸術を見失えば見失う程に、自らが創る芸術もまた、その輝きを失ってゆくのである。

 だから、私はあえて、現代に生きる芸術家の方々に、新時代の芸術は大自然に回帰する所から始まるのだと訴えたい。

 人為を空しくして大自然の偉大なる芸術観に学び、大自然の崇高なる精神に芸術的叡智を汲み取る時、そこに天衣無縫の芸術が誕生してゆく。

 そして、このような芸術作品こそが、大自然の心から離れてゆくことを美徳のように思い、迷子のようになって本当の美を見失っている数多くの現代人の心に、永遠なる大自然の生命の懐かしい旋律を憶い出させて下さるにちがいない。

 大自然にあるものこそが永遠であり、大自然に汲むことのないあらゆる人為は無常ではかないものである。

 新時代が求めている芸術家とは、自らの心の内に、永遠の理念の光を輝かせ、その灯をもって大自然を照らし見、人為をはるかに超えた永遠の創造者と一体となって、自らが照らし見た無限の理念の美の一部を、新時代を彩る一つの自然の創造物と為して、多くの人々の心の糧と出来るような、大自然の生命を体現した芸術家なのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

by 天川貴之

 

「新時代の芸術家によせて」(7)   天川貴之

 

 このように、大自然はある時は真理の書として、またある時は美学の書として、我々の前に、奥深い精神に裏づけられた芸術を、無限に、また、無償で展開して下さっているのである。

 しかし、大自然がいくら我々の前に崇高なる芸術を展開して下さっていたとしても、我々が大自然の心と同通する心を持たなければ、その芸術を芸術として観ずることは出来ない。

 心の内なる自然が外なる自然を知るのであって、自らの心の内に芸術的なる理念の眼を育んでこそ、大自然は、我々の前に無限の理念の芸術を展開して下さるのである。

 それは、小さく見れば小さく響き、深く見れば深く響き、高く見れば見る程に高く響く、こだまのような存在である。

 例えば、心の内に愛の眼を持ってみれば、大自然のありとしあらゆる営みが、いかに細やかでありながら、圧倒的に大きく、また持続的でありながら、時、所、物に応じて様々に変化する天衣無縫の愛で彩られているかがわかるし、心の内に智慧の眼を持ってみれば、大自然の全てがいかに無尽蔵の智慧によって創造され、動かされているかということがわかる。

 

(つづく)

 

 

 

 by 天川貴之

「新時代の芸術家によせて」(6)   天川貴之

 

 他に蝉の一生をとってみても、七年もの間地中にあり、地上に出て一週間だけの生命を完成した美としてはばたかせることは一見かわいそうにも思え、何故に、自然は、一週間だけ地中にいて、七年間大空を飛翔させてやらないのかと感ずることもあるが、よくよく大自然の御心を汲み取ってみると、地中にあった蝉の姿は、まさしく「無用の用」の部分であって、この部分が存在することがどれだけ蝉の一週間の生命の素晴らしさを浮き立たせているかということを考えた時に、蝉が忍耐に忍耐を重ねて飛翔してゆく姿は、限りなく崇高なる芸術を思わせるのである。

 それはあたかも偉人や天才が忍耐に忍耐を重ねて、その晩年に偉大な創造物や業績を遺されることに似ていて、この大部分の目に見えない忍耐と努力の部分があればこそ、その偉人や天才の人生全体が崇高なる徳の輝きと芸術的なる感動を伴っているということを象徴しているかのようである。

 

(つづく)

 

 

 

by 天川貴之