精神的ジャパニーズドリーム~理念の革命~

   新時代の日本のあらゆる分野において、「精神的ジャパニーズドリーム」を起こしてゆくための根本理念を提示します。

2018-01-01から1年間の記事一覧

『新時代の歴史家によせて』(1)   天川貴之

歴史とは、神によって創られ、神によって育まれてゆくものである。確かに、一つ一つの事件をとってみれば、不合理なものもあり、不条理なものもあるかもしれないが、全体として、大きな流れとして人類史を眺めてみた時に、そこに、偉大なる意志、聖なる光を…

『新時代の法思想家によせて』(6)   天川貴之

同じくプラトンは、「哲人王」と並んで、「立法者」という理念を理想国家の中心理念に置いて大切にしておられるが、立法者というものもまた、理念を、普遍なる自然法を認識しうる哲人のことなのである。 このような優れた立法者が、理念を反映させた優れた法…

『新時代の法思想家によせて』(5)   天川貴之

かつて、プラトンが理想とされた法律のあるべき姿もまた、理念を体現した法律なのであり、かかる法律の下に生きる人々が、徳性が豊かになり、向上し、発展してゆくような法なのである。 すなわち、我々の人格の尊厳が、自分自身の定めた格率に主体的に従うこ…

『新時代の法思想家によせて』(4)   天川貴之

自然法の価値的側面、規範的側面に思いを馳せてゆく時には、カントの主張された法と道徳の峻別ということについても検討しておく必要があると思われる。 カントは、確かに、すべての人間の内にある普遍の道徳律、普遍の価値を認められたし、「汝の意思の格率…

『新時代の法思想家によせて』(3)   天川貴之

本来の一なる自然法とは、その中に、人間の内に考えられる所の無限の無数なる最高の価値をすべて含み、それらを統一包含しているものである。 それは、例えていえば、最高の愛そのものであると同時に、最高の智慧そのものであり、最高の自由そのものであると…

『新時代の法思想家によせて』(2)   天川貴之

自然法を否定する方々の価値相対主義の考え方にしても、価値が多様な形で顕れ、それがお互いに対立し合い、矛盾し合っているように見えるのは、あくまでも人間の認識力の側にこそ限界があるからであって、それは一なる自然法の側に限界があるのではない。 群…

『新時代の法思想家によせて』(1)   天川貴之

真なる法とは、本来、自然法のことであり、この自然法の源は、神の法にあるのである。何故なら、普遍なる法とは、人為を超えて、人間によって発見される以前より、そもそも、人間が創造される以前より存在するものだからである。 特に、近代の後半から現代に…

『新時代の経済思想家によせて』(7)  天川貴之

さらには、理念的天才を育てる政策も理想国家建設には欠かせないことになろう。 天才の本質とは、理念を把握出来ることにある。そして、その仕事が理念的仕事であるが故に、時代を超え、永遠的に、人々を感化しつづけ、地域を超え、無限の人々を感化しつづけ…

『新時代の経済思想家によせて』(6)  天川貴之

そこで、第三に、理念自由主義的経済思想が求められるのである。これは、マックス=ウェーバー等の「没価値性の理論」に対するアンチテーゼでもあるが、新時代は、本来の理念価値が実現される時代であり、経済学の中に理念へと向かう規範的方向性が見出され…

『新時代の経済思想家によせて』(5)  天川貴之

そして、第二に、新時代に求められているのは、理念価値主義的経済思想である。価値哲学においては、アダム・スミスやリカード以降、マルクスに至るまで、経済学は労働価値説をその根底に持っており、価値とは、そこに投下された労働時間によって計られるべ…

『新時代の経済思想家によせて』(4)  天川貴之

さらには、愛についても、愛の心を深く大きく高くもって仕事をするのと、かかる心なしで仕事をするのとでは、明らかに違った仕事となるのである。 真に大成した経営者の多くが、自らの成功の最も大きな源を愛や感謝や素直さや明るさなどの精神態度や心のあり…

『新時代の経済思想家によせて』(3)  天川貴之

このように、豊かなる人こそが、無限の豊かさの一部を地上に実現している旗手であり、リーダーなのである。このような無限の豊かさに着眼する時に、新時代に必要な経済思想とは如何なるものなのであろうか。 まず第一は、唯心論的経済思想である。現代は、心…

『新時代の経済思想家によせて』(2)  天川貴之

例えば、マルクス主義の経済思想においては、「資本家は労働者から搾取しているから豊かなのである」という見地から階級闘争の理論が導かれたが、これもまた、有限なる尺度で人間を考え、社会を考えた結果である。 しかし、人間とは、その心の奥に無限の豊か…

『新時代の経済思想家によせて』(1)  天川貴之

無限なる豊かさというものを実現する経済思想こそが、新しき時代には望まれているのである。地上にある豊かさというものが有限であり、ある方が多く取ればある方が少なく取るようになるゼロサム社会は、経済社会の本当の姿ではないのである。 豊かさの源とい…

『新時代の政治思想家によせて』(5)  天川貴之

そもそも謙虚さというものは、神と人間との差を知ることから生まれてくるものであり、どのような知性優れたる方であっても、神の前では無知であり、その無知を知ることから信仰心が生まれるのである。自分自身では充分に理性認識が可能ではないからこそ、信…

『新時代の政治思想家によせて』(4)  天川貴之

一方、歴史というものをよくよく振り返ってみると、神の理法、神の意志というものは、一部の預言者を通して、より直接的に啓示として降ろされたものが多い。 例えば、聖書の世界であっても、本来、神の言葉こそが真なる法であり、絶対的規範であるとされたの…

『新時代の政治思想家によせて』(3)  天川貴之

今の時代に神が望まれているものとは一体何であるのかということを考えてゆく上で、まず検討しておかなければならないことは、神と人間、信仰と理性という永遠のテーマであろうと思う。 神は永遠不滅の理法であり、意志であり、光そのものである。そして、人…

『新時代の政治思想家によせて』(2)  天川貴之

では、このように、政治思想が相克した場合、何を選択するべきなのであろうか。 ここで、最も銘記しなければならないことは、各々の政治思想は、偶然に生じたものではなく、その源には、永遠の自然法、永遠の理法というものがあり、すなわち、そうした天意、…

『新時代の政治思想家によせて』(1)  天川貴之

思想は現実化するという真理は、数多くの史実の中で、既に実証されているのである。まず念いがあり、念いが展開して思想書となり、思想書が現実に顕現して国家となるのである。 例えば、古代ギリシャのプラトンの「国家」という哲人王の政治哲学は、ローマ帝…

『新時代の学者によせて』(5)    天川貴之

そして、特に、新時代の学者像としてどうしても大切なことは、総合的な視野を持ち、すべての学問のつながりを理解し、その本質的同一性を看破することである。 手も、足も、目も、耳も、独立して存在するのではなく、人間そのもののために有機的に存在するも…

『新時代の学者によせて』(4)   天川貴之

本の中にある思想をよくよく味わい、それぞれを比較してみた時に、そこに無限の高さの違いと個性の違いがあることに気づく。ある精神は巨大なエベレスト山の如しであるが、ある精神は庭を歩く蟻の如しである。ある精神はあの大空の如しであるが、ある精神は…

『新時代の学者によせて』(3)   天川貴之

しかし、真に学問を究めようとするならば、いつか精神の父を超えてゆくことを目標としなくてはならないであろう。 確かに、古典にあるような精神を部分的にも超えることは限りなく難しい。一生かかっても、かかる精神的成長を遂げる学者は、万人に一人もいな…

『新時代の学者によせて』(2)   天川貴之

やがて、肉体的にも成長して、知性や理性が発達してゆくと、人間は、活字を通して、多くを学ぶことになる。狭義の意味での学者とは、やはり本を通して学業を積んでゆく。 では、本の本質とは何であろうか。それは、他の人の精神そのものである。外界の経験に…

『新時代の学者によせて』(1)  天川貴之

人間にとって学ぶということは、生まれ落ちてより死ぬまでの終りのない仕事である。 人間は生まれながらにして自由であるという言葉もあるが、人間は生まれながらにして学ぶものであるという定義をしてよいだろう。 人間の本質に「学ぶ」という本性がある以…

『新時代の学生によせて』(7)  天川貴之

以上、学生によせて、智慧に目覚めるための方法について述べてきたが、学問の場とは、本来、学生が真なる智慧に目覚めるための場であり、そこで、たとえいかに多量の知識を身につけたとしても、自己の精神的知性が目覚めてゆかなくては、大学は、本来の意義…

『新時代の学生によせて』(6)  天川貴之

そして、同時に、自己独自の見方、人生観、世界観というものも育んでゆかなくてはならない。それは、自己の本源的なる個性の理念、個性の真理へと目覚めてゆく旅である。 自己の主体性を放棄するということは、自己に本来与えられた天命である個性や、自由や…

『新時代の学生によせて』(5)  天川貴之

では、理念の智慧に目覚めるためには、いかにすればよいのであろうか。まず第一に、無知の自覚を持つことである。 この無知とは、知識の量における無知ではない。どんなに受験勉強を積み重ねてきたとしても、真なる智慧が身についているとは限らないのである…

『新時代の学生によせて』(4)  天川貴之

かつて、ストア哲学で述べられてきたことも、肉体的感覚的な欲求を戒め、精神的欲求、すなわち自己の内なる理性、良心の欲求に忠実に生きることの美徳と幸福であり、これは、近代では、ルソーやカント哲学においても、同様に美徳と幸福とされたものである。 …

『新時代の学生によせて』(3)  天川貴之

無常なるものは、無常であるが故に、長期に渡って何も育むことはない。 たとえ一時的な快楽を得ることが出来たとしても、後々に、それが何も素晴らしい果実を結ぶことなく、むしろ、本来の精神の奥にある理想の果実を蝕んでしまうことにもなるのであるならば…

『新時代の学生によせて』(2)  天川貴之

現代程、無常なる文化のあだ華が絢爛に咲き誇っている時代は、人類史の中でも希有なことである。人々が、これこそ文化であり、文明であると思っている思想や知識の中に、永遠なる香りを漂わしているものはごくまれになっている。 学生時代においては、社会に…