精神的ジャパニーズドリーム~理念の革命~

   新時代の日本のあらゆる分野において、「精神的ジャパニーズドリーム」を起こしてゆくための根本理念を提示します。

「新時代の映画監督によせて」(6)   天川貴之

 

 我々は、どんなにつまらない人生のように自らの人生が見えたとしても、その一つ一つの中に実は神の生命が輝いていたのだということを発見してゆかなくてはならない。

 物質的にも、精神的にも、我々は神の法則の下にあり、神の掌の上に乗せられるようにして、我々の人生の花は、その種を蒔かれ、茎を伸ばし、花を咲かせ、果実を実らせ、そして、次なる種を残して枯れていくのである。

 たとえ、人生において、悲しいことが多く、苦しいことが多かったように見えても、それをただ悲しいだけで終わらせてしまい、その苦しみをつまらない苦しみだけに終わらせてしまったのは、他ならぬ自分自身なのである。

 悲しみと見えしことの中に神の導きの手を見出し、神の救いの手、神の栄光の手を見出すことの出来た人にとっては、もはや、その悲しみと見えしものは、大いなる光明以外ではなくなってしまうのであって、こうして人生を観ずることが出来る時に、その人は、神の光明の生命そのものに輝いているといえるのであり、その人の人生は、神の光明の芸術そのものに輝いて観えるのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

「新時代の映画監督によせて」(5)   天川貴之

 

 人間とは、内なる自分と外なる世界を一体のものとして受け入れなければならない存在であり、例えば、外なる壁を押した時に、その反作用を受けるように、また、ピアノの鍵盤を押した時に、様々な音が鳴り響くように、我々は、自ら為したことの結果を、ある時は、壁の圧力のように運命の逆境として受け、ある時は、ピアノの音のように運命の芸術に抱かれながら人生を織りなしてゆく存在なのである。

 そして、運命に彩られる一瞬一瞬は、それがその人に対する神の法則の応えであるという所において、どれをとってみても、それは神の偉大なる芸術と観えるのであり、もしもこの神の運命の糸を見抜けなかった時には、その荘厳なる芸術は、限りなく卑小化したものに見えてゆくのである。

 故に、人生を描く時に、それを偉大なる芸術へと為すものは、何よりも人生を観ずる「理念の眼」であり、人生の中に神の芸術を観ずる「理念の眼」なのである。

 神を観ずる人にとっては、人生はすべて神の業に見えるのである。

 神の見えざる手が、人間を限りなく崇高なるものの方へと導く姿が、そして、神が人間を通して偉大なる芸術を創造されんとする姿が、あらゆる悲しみの中にも、あらゆる苦しみの中にも、あらゆる喜びの中にも、あらゆる感動の中にも、あらゆる失敗の中にも観えてくるのである。

 かかる人にとっては、すべてのすべては神の生命の顕われ、神の心の顕われ、神の光の顕われ、神の芸術の顕われ、そして、すべてを超越した絶対的なる悦びと絶対的なる栄光の顕われに観えてくるのである。

 (つづく)

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

「新時代の映画監督によせて」(4)   天川貴之

 

 人生とは、いわば神との対話の連続である。神の応えは、常に運命という形で自分自身に降りかかってくるのである。

 かつて老子が、「天網恢恢、疎にして失わず」と云われたことの真意は、まさしく、この神の業の法則について云われていたのである。

 どんなに小さなゴミのようなものであってもすべて重力の法則が平等に運用されるように、いくら巧みに他人に知られないように悪事を働こうとも、必ず、それに対する反作用を人生のいずれかの時点で受け継ぐようになるのである。

 聖書の中において、「播いた種は刈り取らねばならない。」、「与える者は与えられるであろう。」、「許す者は許されるであろう。」、「憐れむ者は憐れまれるであろう。」、「剣を取る者は剣によって滅ぶであろう。」等と述べられているように、自らの人生と運命を、また、歴史上のあらゆる人生と運命を一つ一つ眺めてみると、そこに何一つ例外がないことに気づくのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)