精神的ジャパニーズドリーム~理念の革命~

   新時代の日本のあらゆる分野において、「精神的ジャパニーズドリーム」を起こしてゆくための根本理念を提示します。

「新時代の志士によせて」(9)   天川貴之

 

 故に、行動の天才であればある程に、哲学の天才、思想の天才、学問の天才の門を数多く叩いて、積極的に師弟の礼をとり、学んでいっていただきたいのである。

 理念上の師を求めることは、理念の志士にとって崇高なる義務である。これは最高の美徳なのである。

 決して、異質な人々だと思って、彼らに苦手意識を持ったり、反感を持ったりしてはならない。

 精神的なる師を持って初めて大いなる志士として大成出来るということは、かの松下村塾慶應義塾適塾などの例を出すまでもなく、真理なのである。

 理念の哲人と理念の志士は、本来一体の生命である。一なる生命が、二つの天分となって顕れているだけなのである。

 本来一なるものが、一なるものとして使命を果たしてゆかんとする時、そこに新たなる回天の偉業が始まってゆくのである。

 

 

 

 

 

 (by 天川貴之)

 

 

「新時代の志士によせて」(8)   天川貴之

 

 最後に、新しき理念的志士道精神において挙げておきたい精神理念は、寛く高い思想性である。

 志とは、そもそも特定の思想を実現せんとして派生してくるものであるが、それが狭さとなって顕れることがよくある。

 そして、志故に排他的になり、信念と情熱故に、敵と見えし者を排除してゆく傾向が出てくる。

 この悲劇性の源にあるのは、若さ故の思想的寛容さの不足である。

 かの明治維新の時であっても、尊皇攘夷の志士達が、開国派の志士達を敵視し、排除しようとされたが、その後の日本の歴史をみると、両方とも歴史的に大いに意義のあった、思想的流れであったことがわかる。

 このように、同時代に、一見敵対すると見えるものの中にも、自己の信条的限定をとり去れば、本来、大切なものがあることが多いのである。

 故に、実践力、行動力を武器とする志士であるからこそ、幅広く、多様な思想と多様な個性の可能性を学んでゆかなくてはならない。

 理念とは、一なるものであると同時に、多様なる個性を持つものであるから、そのすべてを学ばんとする熱意を持っていただきたいのである。

 

 

 (つづく)

 

 

 

 

 

 by 天川貴之

 

「新時代の志士によせて」(7)   天川貴之

 

 さらに、理念的志士道精神にとって、大切な眼目は、圧倒的なる仁の心と平静なる心である。

 ともすれば、古来より武士道の伝統は、武にはやるあまり、修羅の如く怒りの心に染まりやすい傾向があったといえるが、これは、武士道そのものの中に隙をつくっているともいえるものである。

 新時代の志士は、たとえ、表面的に現象的なる悪として現れた相手を、公の正義の観点から悪として戦わなければならないことがあったとしても、かかる時でさえ、相手の根底にある不動の理念に対しては、心の奥の奥よりの圧倒的なる仁の心、礼と敬いの心を持っていなければならない。

 その根底に圧倒的な仁の心があるのとないのとでは、たとえ表面的には同じことをやっていても、その徳性において、天と地程の大きな隔たりが出てくるものである。

 天は圧倒的なる仁であられるから、根底よりの怒りの心は天との隔たりをつくってしまうが、何事を処すにしても、根底に絶対的なる仁をもって相対すれば、天と一体となって、究極的な勝利を収めることが出来るのである。

 また、圧倒的なる仁の心があれば、あらゆる私的な噴りから自由になることが出来るので、その心は、常に平静で落ち着き、深さと重厚さを備えるようになる。

 この仁の心は、さらに、身内の者や周囲の方々への限りない優しさとなっても顕れる。彼は、公の正義のために勇ましく生きていたとしても、常に私心を戒め、人々への真心よりの愛を旨としておられるからである。

 また、真に仁の心を身につけられた方は、ともすれば、古来の武士にありがちな、過度に自己の名誉を重じる傾向も少なくなってこられるであろう。

 それは、真なる仁の心が、自己を超越した大愛へと導くからである。まだまだ自分の名誉や、功名心や、ヒロイズムに酔っている内は、心の奥なる理念的志士道精神が確立していない証なのである。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

by 天川貴之