「新時代の批評家によせて」(3) 天川貴之
その反対に、いつも他人の良き所を発見する習慣のある人は、自ずから他人の良い所を自分も身につけ、それに近づかんとしているのであるから、まず何よりも、自分自身がどんどん良くなってゆくし、また、良い所をみつけられた他人も良くなってゆくし、その言葉を聞いた社会全体も良くなってゆくのである。
このように、言葉の実現力というものに着眼した場合、何よりも、社会を良くしてゆく原動力となるものは、良き所を発見し、言葉にしてゆく、いわば光明批評家の存在であり、社会全体を何よりも悪化せしめているのは、悪しき所を発見し、言葉にしてゆく、いわば暗黒批評家の存在なのである。
しかしながら、特に、日本のマスコミの環境を観察してみると、ほとんどが欠点探しをするタイプの記事であることに気づく。
確かに社会正義実現のために社会悪を糺すことは批評家やマスコミの使命であり、大切なことであるが、あまりにも過剰な私的悪口に堕しているものが多いのである。
これは何も、独りマスコミだけが悪いのではなく、資本主義社会においては需要がある所に供給があるのが原則であるから、欠点探しを楽しみに思う国民全体の風潮そのものが悪いのであるともいえるであろう。
しかし、さらに、その背景にある事実は、まさしく言葉の法則というものに対する無知があるといえるのである。
一見、他人の欠点を発見して言葉にすることは自分自身の自尊心を満足させ、好奇心を満足させ、ほのかな快感をも感じさせるものがあるようにも思えるが、その実、多量の毒素を自分自身があおっていることに気がつかなくてはならないのである。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)
「新時代の批評家によせて」(2) 天川貴之
すなわち、言葉は、本来、すべてのすべてを創造する力を有しているのであり、霊的直観力が優れた古代人達は、このことを洞察しえたのである。
我々人間も、神に似せて創られた神の子として、神より自由意志と自由創造力を与えられているが、まさしくこの創造力の源として、言葉の力が与えられたのである。
人間は、言葉の力によって、善きものを創造することも、悪しきものを創造することも自由であり、実際に、批評においては、物事や人物の悪しき所を言葉にすることで悪しきものを創造し、逆に、善き所を言葉にすることで善きものを創造しているのである。
言葉の効果ということを考えてみれば、その人の悪を訂正するために悪を暴いたという行為であったとしても、かえって、言葉の力によって悪を大きくしていることもあるので、よくよく注意しなければならない。
そして、何よりも、他の中にある悪を発見して、悪を言葉にすること自体が、同時に、自分自身の中にも悪を創造している、という真実についても、念頭に置いておかなくてはならない。
人間は、常々、自分自身が発した言葉そのものが自己の人格へと変化してゆくのであり、言葉の実現力は、まず何よりも、自分自身に対して効果を発揮するからである。
だから、いつも他人の悪しき所を発見する習慣のある人は、自ずから他人の悪しき所を自らも身につけ、それに近づかんとしているのである。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)
「新時代の批評家によせて」(1) 天川貴之
物事には、何でも良い面と悪い面がある。批評家とは、通常、良い面をあまり見ずに、悪い面ばかりを強調して酷評する傾向があるが、これは心の法則からいうと、自分自身のためにも、その対象となった方のためにも、また社会全体にとっても益にならず、むしろ、有害になっていることが多いのである。
何故ならば、言葉にはその内容を実現する力があり、暗い面を強調してみてゆけばゆく程に、暗い面が、より一層、現実化してゆくからである。この意味において、批評とは、まさに両刃の剣である。
そもそも、古来より言葉には言霊が宿るといわれているが、言葉程、人間存在にとって本質的なものは他にないのである。
新約聖書の福音書にも、「初めに言(ことば)ありき。言は神とともにあり、言は神なりき。」と銘記されているように、言葉の根源には神の力が働いているのであり、神の存在形態の究極のものは、言葉なのである。
また、旧約聖書の冒頭には「神、光あれと言い給いければ光ありき」と記されているが、神は、言葉であられると同時に、言葉にて天地創造をなされたのである。
万物の源が一体何であるかということが、かつてギリシャ哲学の根本命題にされたことがあったが、旧約聖書は、その問いに対して、はっきりと、それは「言葉」であると答えられているのである。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)