精神的ジャパニーズドリーム~理念の革命~

   新時代の日本のあらゆる分野において、「精神的ジャパニーズドリーム」を起こしてゆくための根本理念を提示します。

「新時代の小説家によせて」(5)    天川貴之

 

 大きな意味において、この世界を神の小説とみる見解は、ドイツの観念論哲学を大成されたヘーゲルの「歴史哲学」などにおける、「絶対精神の世界展開」という趣旨と一致する。

 かかる観点から見れば、世界史とはまさしく神の書かれた小説そのものなのであり、そこに登場する人物のセリフ、特に、神の言葉を伝える預言者等の言葉は、神の創られたセリフそのものなのである。

 例えば、旧約・新約聖書の世界を観てみても、何千年以上の歴史が一つの神の大小説のように見えてくる。

 そこにおいては、救世主イエス・キリストの降臨とその大まかな運命を、過去の幾人、幾十人もの預言者が予言してゆき、イエス・キリストは、それらの予言が成就されるために、という言葉に現わされるように、運命の毒杯を自らあおってゆかれるのである。

 この何千年もの時をかけて、また、これだけの優れた預言者達や王達や民達を動員されて創られた大芸術以上のものを、我々は、果して、人間の作為において創造することが出来るであろうか。これだけの永遠の光の言葉と教訓を、その中にこれ程散りばめることが果して出来るだろうか。

 そのような真実を考える時に、人類史全体を大きく貫く所の一つの大きな意志、一つの大きな叡智、一つの大きな慈悲、一つの大きな芸術精神を観じざるを得ないのである。

 (つづく)

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

「新時代の小説家によせて」(4)    天川貴之

 

 この人間と世界という小説は、人間が創った小説とは異なり主人公自身が作者と同じ生命の一部であって、主体的なる思考力と自由創造力を持って生きていて、その過程で、時にはその創造力によって作者の意図とは離れたことをし、時には作者の意図に適ったことをしつつも、しかしながら、トータルで見れば、大きなストーリー展開としては、作者の意図通りに流れてゆくものなのであろう。

 そして、時折、登場人物そのものが作者である神を認識し、思考し、直観することが許されているのである。

 それは、作者と創造人物とが、本来同一の生命であるからこそ、神の子の生命が神の生命を知ることが出来るといえるのであり、人間が創った小説のように、登場人物と作者が同じレベルの生命でなければ、作者は登場人物を知ることが出来ても、登場人物の方は、作者を知ることは永遠に出来ないのである。

 このような小説を通しての類推は、我々人類が神を自己の内に認識することが出来るという点において、すなわち、神と人間との、作者と登場人物との相互作用が可能であるという点において、我々人間が神の子であり、神の生命の顕われであるという事実を教えて下さるのである。

 

(つづく)

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

「新時代の小説家によせて」(3)    天川貴之

 

 私は、小説を読む度に、神は小説を書くようにして世界を創造されて、また、されつつあるのではないかと思うことがよくある。

 我々が生きている世界とは、実は、小説の中の世界の如きものであって、この世界からは感じることの出来ない次元の世界で、神は我々の世界を構築されようとしておられるのかもしれない。

 それは、小説の登場人物が、小説の中で思考し、行動し、人生を考えているように見えても、決して作者のことはわからないのと同じように、我々もこの世界の作者である神の意図を知ることが出来ないのであろうか。

 また、小説の中では、それぞれの人物がそれぞれ個性を持ち、主体的に動いているように見えて、実は、作者の意図のままに語り、行動しているように、もしかしたら、我々も自分自身で言動しているかのようにみえて、実は、自分自身は神のセリフを言っているだけではないだろうかと考えてみることもある。

 しかし、そのように考えてしまうと、人間が、神の一部として、神の思考力の一部と、神の自由創造力の一部を与えられているという真理を否定してしまうことになるから、おそらくは、それは極端な見解なのであろう。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)