「新時代の小説家によせて」(2) 天川貴之
もちろん、小説に登場してくる人物が偉人となるためには、それを表現した所の作者自身が偉人の精神を宿しておかねばならず、「ウェルテル」は、若き感性豊かな詩人ゲーテの偉大なる精神像であるし、「ファウスト」は、老いた永遠の求道者にして、救済を求めた、宗教性豊かな哲人ゲーテの偉大なる精神像であるのである。
このように、よくよく作品の登場人物を探究してみると、それが、作者の内的人格そのものであり、そのストーリーは、作者の人生観と人生そのものであり、実は、それが、小説という形を借りての「告白」であり、「自伝」であることがわかる。
さて、このように、小説とは偉大なる創造行為であるが、我々は、人間の小説創造のプロセスを基にして類推することによって、神の人間創造、神の世界創造という究極のテーマを探究することも出来るのではないだろうか。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)
「新時代の小説家によせて」(1) 天川貴之
小説を書くということは、その中において、自己の内なる世界にある所の様々な個性、様々な思想、様々な可能性を、一つ一つ登場人物を通じて創造してゆくということである。
作者が物語を創るまでは、かかる人物はこの地上に存在しなかったのであるから、まさしくこれは、一つの生命の創造に近いものであるともいえよう。
例えば、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」にしても「ファウスト」にしても、それはまさにゲーテ自身であり、ゲーテの分身であるが、その本が出版されて、世の中の人々の知る所となるや否や、かつての歴史上の偉人などと同じように、人類史の中において、確たる地位を獲得し、確たる存在感を得るようになるのである。
そして、彼らの性格や、発された言葉の一つ一つ、なした行動の一つ一つが、あたかも伝記上の偉人の言動の如く人々を感化し、ある時は、人々の人生の指針ともなってゆくのである。
また、彼らの人生そのものもまた伝記上の偉人と同じような働きをなしてゆき、彼らの人生そのもの、生き方そのものを、内村鑑三の言われるが如く、「後世への最大遺物」となすことが出来るのである。
(つづく)
BY 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)
「新時代の映画監督によせて」(7) 天川貴之
このように、自分自身の人生を偉大なる芸術へと為すことが自分自身の観じ方次第で出来るように、自分を含め、いかなる人々の人生、もしくは、国家や民族の人生をも、我々は我々の観じ方によって偉大なる芸術作品と為すことが出来るのである。
新時代の映画監督に私が望むものは、単に技術的なものではない。また、特撮による奇抜さのようなものでもない。
人間にとっての永遠のテーマでもある所の神と人間、運命と自由の本質をその中に描ききり、小さな人生から有名な偉人の人生に到るまで、また逆境の人生から順境の人生に到るまで、すべてのすべての中に、神の生命、神の法則、神の栄光を観じとってゆくことなのである。
神の生命の輝きは、本来、すべての中に隠され、それが、同じく人間の内なる理念の生命の輝きによって発見されることを待ち望んでいるのである。
かつてソフォクレスが人々にかいまみせ、シェークスピアが人々に語ったこの永遠の感動を、現代という時代に生きる人々に対して、大いなる芸術の炎として掲げ照らしてゆくことこそ、新時代を神の栄光ある芸術の時代へと為してゆくための映画監督の使命なのである。
(おわり)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)