『新時代の哲学者によせて』(1) 天川貴之
哲学者とは、考える人であり、思考し思索しつづける人のことである。それは、知識を学ぶ者でも、哲学者や哲学思想を研究する人のことでもない。
故に、真に哲学者として生きんとする人は、何よりもまず、自己の内なる眼を開き、他人の眼を通してでも古の偉人の眼を通してでもなく、自己固有の眼を通してこそ、自己を観、他者を観、世界を観てゆかなくてはならない。
観るということは、当然、現象の眼をもって現象の世界を知ることではない。哲学者に固有の「理念の眼」をもって、理念の世界を、直接、または間接的、段階的に把握するということである。
現象と理念というものは、一なるものでありながら、あり方の異なるものであり、理念とは、いわば、すべての現象の奥に秘められている光である。
かかる理念の光を見出して、それこそが実在であり、本当にあるものであるのだということを、実感を通して知ることこそ、哲学者の第一歩である。
哲学者の眼をもって生きない人は、現象世界の中にあって、現象の枠を超えることが出来ない。いわば閉じられた、あるいは完結した狭い世界に住んでいる有限の存在である。
しかし、一度、哲学の眼に目覚め、その眼光を放って世界を見てみると、彼にとって、世界は変貌する。現象という現象は夢幻の如く見え、その背後にある理念の世界、真実の世界がありありと見えるようになる。
理念の世界を見るものは、やはり理念の人間であり、彼は、現象の世界にあって、既に現象の世界に居らず、別の世界の住人となっているのである。
かかる世界こそ、真なる哲学者の世界である。哲学者は、大抵の人が見落としてしまうもの、いや、厳密にいえば見ることが出来ないものを見ることが出来る。
彼は、理念の中に、現象に先行してあり、また、現象よりより確固としていて、普遍的なるものを見出すことが出来る。
そして、理念と現象との関係とは主と従であって、理念が現象を創り出し、理念が変われば現象が変わってゆくという真理を知るようになるのである。
故に、哲学者は、理念を通して現象を説明し、理念によって現象を予測し、理念を通して現象を変えてゆくことが出来るのである。
多くの人は、現象の連続として世界を見、現象の後をついてゆくのみであるから、現象を真に説明することも、予測することも、また、現象のあり方を真に変えることも出来ない。
このように、哲学者の眼は、不動の力を持つこと、金剛石の如き価値を持つことがわかる。真の哲学者は、理念という最強の武器によって、人間を変え、世界を変えてゆくことが許されている存在であり、それが、哲学者の使命であるのである。
(つづき)