序、『現代を生きる精神によせて』(4) 天川貴之
この新時代の直観こそ、私達が今の時代に生かされているという入場券である。これがなければ、そもそもこの時代に生きている意味の大半は失われたのも同然である。
生きている意味、それは、奥深く、多様で、神秘的で、語りようにも語り尽くせぬ無限の存在である。それはまた、人それぞれで、時代それぞれで、つかみ所がなく、定義しようのないものでもある。
しかし、それは、同時代に生きる証として、必ず、すべての人の心の内にある理念の志であると、私は敢えて断言したい。もしも、それがないという人は、ただ長い長い忘却をしているだけなのだ。
本当は忘れようとしても忘れられない、永遠でありながら、その時代に唯一の理想が確かにあるはずなのだ。目のうろこをとり去れば、必ず心の眼をもってそれを見ることが出来るものなのだ。
さあ、目を覚まし、時代の日の出を見ようではないか。たとえ見る人は数多くいても、太陽は一つである。今日昇る太陽も、今日という一日も、一つなのである。
必ず日は昇る。私達は、日が昇りゆく時に目を覚まし、一人一人が真に朝の太陽の呼び声に呼応しなくてはならない。
時代の表情─、現代という時代を刹那の時代という人もあれば、忙しい時代という人もある。けれども、私は敢えて言いたい。その姿こそ、幻であると。
真なるこの時代の姿は、刹那的ではなく、永遠であり、忙しいのではなく、深く理念的な時代であると。
夢幻から覚めた時、人は正気になる。正気になった時、本当の人格が現れ、本当の時代の表情が現れる。
本当の時代の意味というものを感じとればとる程に、時代を生きる人間の生き甲斐は、高く、深く、崇高になる。
そして、限りなく尊い責任と使命が、限りなくまばゆい夢と希望が、心の内にふつふつとこみあげてくる。
そこに、永遠に近い、新時代を生きる人間の精神が誕生する。
(おわり) ~ 序、『現代を生きる精神によせて』~