「新時代の画家によせて」(4) 天川貴之
このように、観ずるということは、もちろん、自分自身の精神の内にある性質を通して、同じ性質のものを外に見出すということであるから、例えば、ゴッホの描かれた富士が明朗なものであれば、それは、ゴッホ自身の明朗な精神性が富士の内にあった明朗な精神性を映し出しているのであり、そうすることによって、ゴッホが自らの心の世界において創造したゴッホ富士を、自分自身の自画像のように表現しているのである。
故に、画家の精神性が変化してゆけば、たとえ同じ環境に生きていても、どんどんと描かれる絵画も変わってくるのは当然のことである。
ピカソは、その生前において、年代の推移とともに、「青の時代」、「桃色の時代」、「キュービズムの時代」、「古典主義の時代」、「アンティーブの時代」というように画風の変転が現れたが、これは何よりも、ピカソの精神の変転する軌跡を物語っているのである。
絵における色彩そのものにおいても、画家の精神性はかなり直接的に現れるものであり、同じ青を用いても、ピカソの初期に用いられた青は、凍りつくような悲愴さをもっており、しかも、透徹した達観をその内に宿しているかのような色であって、色合いそのものが、ピカソの心情の一部となって表現されているように感じられる。
もし、これをゴッホが表現したとしたら、全く違った青になることであろうし、どんな絵具を用いても、決してピカソの青を出すことは出来なかったであろうと思われる。
また、形をとってみても、構成の仕方をとってみても、明暗の使い方をとってみても、すべてが作者の精神性の顕われであることは否めない真実として表現されているのである。
(つづく)
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)