『新時代の学生によせて』(5) 天川貴之
では、理念の智慧に目覚めるためには、いかにすればよいのであろうか。まず第一に、無知の自覚を持つことである。
この無知とは、知識の量における無知ではない。どんなに受験勉強を積み重ねてきたとしても、真なる智慧が身についているとは限らないのである。むしろ、自分は知識を有しているという浅はかなプライドが、自己の精神の向上を妨げていることが多いのである。
智慧とは、他者との比較によって測るものでも、人生の一時期に多量に身につけるものでもない。智慧とは、自分自身の精神にとって絶対的なるものであり、その奥は限りなく深く、究めても究めても、その真なる目標は遠く、一生をかけて探究してゆかなくてはならないものなのである。
故に、かかる無限なる智慧の観点から、自己が今現在学んでいると思っている知識が、いかほど無知であるかを痛感しなければならない。
そして、自己の奥の奥なる精神の無知なる自覚からくる所の、限りなく永遠なる智慧へのあこがれ、真なる「エロス」を育んでゆかなくてはならない。
永遠なる智慧と至高なる「エロス」が目覚め、何がためという外からの理由によってではなく、エロスそれ自身の聖なる欲求に基づいて、永遠なる理念を求めつづけんとする時、無知の自覚自体が、大いなる希望となり、大いなる夢へと昇華される。
無知の自覚に基づいた永遠なる理念への夢こそが、真なる智慧者への出発点であるといえよう。
次に大切なことは、あらゆる時代地域を通して読みつがれてきた理念的な智慧を体した「古典」を、広く深く読みこんでゆくことである。
そして、先入観をはずして、それぞれの立場に身を置きながら、出来るだけ様々な見方、様々な人生観、世界観を、その理念的個性、理念的多様性の可能性を学んでゆくことである。
「真理は汝を自由にする」といわれるが、理念とは、本来非常に広く、多様なるものであり、しかも、一なるものに統一されているものである。
故に、理念に目覚めれば目覚める程に、精神は広々として、あの大海原の如く、大きな包容力を持つものに成長してゆく。
そして、特定の時代、特定の地域に生まれたという肉体的限定を限りなく外してゆくことが出来るのである。その中で、確実に、精神の普遍なる久遠なる一なる生命が目覚めてゆくことになるのである。
(つづく)