『新時代の学者によせて』(2) 天川貴之
やがて、肉体的にも成長して、知性や理性が発達してゆくと、人間は、活字を通して、多くを学ぶことになる。狭義の意味での学者とは、やはり本を通して学業を積んでゆく。
では、本の本質とは何であろうか。それは、他の人の精神そのものである。外界の経験によって、他の人が自己の内に消化吸収し、蓄えた所の精神の血肉である。いわば、その方の個性をもった精神的理念的エネルギーの塊なのである。
よって、私達は、本を通して、知識を得るというよりも、人間の精神性を獲得してゆくことになる。
しかし、真に本を読んだといえるためには、相互作用が必要であり、本の内にある精神に対して、自己の精神が呼応し、相手の精神を映し出さないといけないのである。
故に、自己の主体的精神の確立こそが読書の条件であるともいえるし、学者の条件であるともいえるのである。
学者とは、自己の精神を通して他者の精神を知り、自然の世界の精神を知るものである。
自己の精神が目覚めていないものは、いくら書物を読んだとしても、ただ単に文字の記憶として残るだけで、それによって、自己の精神の糧を得ることも、自己の精神を成長させることも出来ない。自己の精神の成長に従って、学べる知性の段階と幅が決まってしまう。
その意味では、真に崇高なる良書、特に古典を心読することは、学者の本道である。
古典にある精神は、偉大で限りない高みと深さを持っているものである。かかる精神との出会いは、ある意味で精神の父との出会いであり、精神の師との出会いでもある。
そして、何度くり返して読んでみても、自己の精神の成長度によって違った学びを響き返して下さるものなのである。
あたかも、大いなる父に抱かれし子供のように、大いなる精神の父は、精神の子供を抱きかかえて下さるのである。
(つづく)