『新時代の学者によせて』(3) 天川貴之
しかし、真に学問を究めようとするならば、いつか精神の父を超えてゆくことを目標としなくてはならないであろう。
確かに、古典にあるような精神を部分的にも超えることは限りなく難しい。一生かかっても、かかる精神的成長を遂げる学者は、万人に一人もいないかもしれない。
しかし、永遠の理想として学びつつ、無限に成長してゆき、いつか精神界の巨人として、独り立ちしてゆくことを夢みて努力することは、永遠のロマンのように、学者を限りなき冒険者にする。
そして、古典を学ぶ時には、その性質上、一生において、くり返しくり返し学んでゆくことになるが、その時に銘記しておかなくてはならないことは、自己の精神の色合いは、確実に、自分が常日頃学んでいる精神の色合いを呈してゆくということである。
ある精神を学ぶということは、その精神を自己の内に取り込み、自己の一部としてゆくということだからである。
だから、幅広い読書はするべきであるが、座右の銘とするような本は、本当の意味で、自己の理想像にしたいようなものを選ばなくてはならない。さすれば、読書を通して、だんだんと、人格的に、精神の内奥より、その理想的精神に近づいてゆくことがわかる。
精神とは、このように、何を師とするか、何を目標とするかということによって、どんどんと変わってゆくものなのである。
だから、自分自身よりも高い精神をこそ、何よりも尊ぶべきである。学べば学ぶほどに、あなたの精神は、限りない高みへと飛翔してゆくであろう。
精神は、あの植物のように、あの杉の木のように、毎日毎日、毎年毎年、限りなく伸びてゆくことをその本性としているのであり、そこに真なる悦びを感ずるように出来ているのである。
精神の成長こそ、ある意味で、人間の生きる意味であり、そこには無限の可能性があるのである。
(つづく)