精神的ジャパニーズドリーム~理念の革命~

   新時代の日本のあらゆる分野において、「精神的ジャパニーズドリーム」を起こしてゆくための根本理念を提示します。

『新時代の学者によせて』(4)   天川貴之

 

 本の中にある思想をよくよく味わい、それぞれを比較してみた時に、そこに無限の高さの違いと個性の違いがあることに気づく。ある精神は巨大なエベレスト山の如しであるが、ある精神は庭を歩く蟻の如しである。ある精神はあの大空の如しであるが、ある精神は小さな水たまりの如しである。

 生きている時は、同じくらいの大きさの肉体にあって生活していたのに、この精神の大きさの違い、高さの違いは何としたことであろうか。生きている時には、外からはなかなか伺い知れなかった人間の真実の姿とは、実は精神そのものであり、精神の内にある思想そのものであるのだ。だから、人間とは精神である、といっても過言ではない。

 学者とは、まさしくその精神を磨かんとする人なのである。精神の偉大さこそ、学問を通して真に得られるものであり、精神の大きさこそ、学者としての大きさそのものであり、精神の高さこそ、学者としての高さそのものであり、精神の幅広さこそ、学者としての精神の幅広さそのものであるのである。

 このように、学者は、精神界において生きる者であり、それは、人間の本来あるべき姿の欠くことの出来ない一面なのである。

 また、先程は、自己の理想像から学び、自己の精神を成長させてゆくことの大切さを論じたが、さらに大切なことは、自己の本来の個性、本来の固有の精神に忠実であることなのである。

 学者というものは、一見、非常に受け身にもみえるが、実は、これほど主体的、能動的態度が必要なものもないのである。

 学問において、自己の固有の思想を捨てることは、自己の精神そのものを否定することでもある。あくまでも、学ぶということは、真の意味で、自己の思想を、自己固有の精神を成長させてゆくためにこそあるのだという原点を、常に忘れてはならない。

 自己なくして学びなし。自己なくして精神なし。真に自己の精神を磨き出し、自己の個性そのものを発見する時、人間は、真の意味で、その自己と対置される他者の個性そのものを発見し、自己もその一部であり、他者もその一部である所の世界そのものを発見することが出来るのである。
  いや、厳密には、自己即他者であり、自己即世界であることを発見することになるのである。自己の個性そのものを深く深く掘り下げていった時に、実は、すべてを穿ち、すべてと出会うことになるのである。しかも、自己の普遍的個性の眼を通した唯一無二の出会いをするのである。

 だから、学者にして自己の精神を守り育てないものは、他者を主人とする精神的奴隷のようなものである。すべての学者は、真の意味で自己の精神の主人とならなくてはならない。たとえ一人の偉大な精神を研究し、何十年も没頭しようとも、それは、やはり、自己固有の精神の一通過点にしかすぎないのである。

 

(つづく)