「新時代の宗教家によせて」(4) 天川貴之
この宗教の本質は、イスラム教においても、仏教においても、ギリシャ哲学においても、儒教や日本神道においても、そう変わらない。
多くの人々が、特定の聖者の心を通して、神の姿を知り、神の心を知り、神の法を知り、神と共にあり、神と一つに結ばれて生きんとしてきたのである。
この真実は、本当の人類史を解く上での黄金の鍵である。信仰という鍵なくして、人類史を知ることは出来ないし、そもそも人間の本質を知ることも出来ないのである。
太初より神は存在し続け、そして、未来も存在し続ける中で、現在にも神が存在するということは当然の真理である。
神なき時代というものは、一部の人間の心が描いた一つの姿にすぎず、いわば、天空に太陽が輝いているのに、自らは自室に閉じこもって、太陽を見ようともせず、太陽はないと錯覚しているにすぎないのである。
太陽の光なくば、すべての地上の存在は闇になってしまうように、精神的なる太陽の光、神の光がなければ、すべての存在の営為は、闇に沈んでしまうのである。
しかしながら、精神的なる太陽は、不動不変、永遠久遠の実在として、存在し続けているのだ。しかし、その光を反射する所の人間の精神の鏡がなければ、やはり世は闇に沈んでしまうのである。
宗教家の本質は、神を、その精神の鏡によって映し見せることであり、自らの心をもって世に光を与えることである。実は、人類の文明を生かし育み、これに生命を与え、輝きを与え、これを存在せしむるものは宗教なのであり、かかる根源的にして重大なる使命を、宗教家は担っているのである。
(つづく)
by 天川貴之