『新時代の学生によせて』(3) 天川貴之
無常なるものは、無常であるが故に、長期に渡って何も育むことはない。
たとえ一時的な快楽を得ることが出来たとしても、後々に、それが何も素晴らしい果実を結ぶことなく、むしろ、本来の精神の奥にある理想の果実を蝕んでしまうことにもなるのであるならば、何とも虚しいことではないか。
現代には、何となく虚しさや虚脱感を感じている若者が多くなっている。それはそれで、正しい感覚であるともいえるのだ。
永遠なる理念を見失うことは、人生の真の意味を見失うということである。永遠なる理念を見失うことは、自己の生命を真に賭けるに足る対象を見失うということである。
永遠なる理念を見失うということは、真実なる歴史の意味も、世界の意味も、すべてを忘失するということだからである。そうした精神の危機的状況にあって、精神自身が自己警告を与えているのだ。
自己の精神の内奥をよくよくふり返って考えていただきたい。何人たりとも、自分自身の真なる生命に嘘をつくことはできない。それは、あの自然界の法則をいかにしてもねじ曲げることができぬ程の正確なものである。
精神が求めるものは、常に変わらない。時代がいかに変転しようとも、地域がいかに変わろうとも、常に同じものを求める。それは、自分がどこに移り住んだとしても、自らの故郷が永遠に変わらないのと同じである。
哲学の本質とは、この精神の永遠なる欲求に応えることにあるともいえるのである。
精神の働きが活発にならず、眠りにある時には、人間とは、感性的な肉体的な動物的存在に思われるかもしれないが、それは人間の皮相な姿としては真実であるが、本質としては、偽物である。
人間は、その奥の奥なる精神に目覚めて初めて、人間らしくなることが出来、本物の生命に新生することが出来るのである。
(つづく)