『新時代の歴史家によせて』(2) 天川貴之
ならば、我々も、神の善かれと思われたその中に、神が何をもってそれを善しとされたのかということを観じてゆかなくてはならない。
一見、圧倒的な悪とみえるようなものであっても、それをあらしめておられる神の意志を考えた時に、もっと視線を広げ、もっと深く、もっと永い洞察を加えて、一条の神の光をそこに見い出してゆかなければならない。
歴史上に存在してきた数多くの宗教、数多くの思想、数多くの芸術を眺めてみた時に、我々一人一人が、現在、絶対的なことと思っていることや、決してその価値観の枠の中からでることが出来ないだろうと限定している自分にとっての広大なるコスモスが、全歴史の中では、本当に一点のような有限の存在になってしまうことに気づく。
例えば、イエス・キリストと共にキリスト教の世界観の中で生きてきた人々にとっては、他のすべての宗教が邪教で、他のすべての文化の営みが無為なるものに思えたであろうが、歴史を大きく眺めてみると、過去数千年間において、キリスト教文化が、人類史の中の十分の一も占めていないことがわかるし、同時代に、日本には日本独自の文化が栄え、中国には中国の、インドにはインドの文化の悠久なる営みがあったことを知るのである。
このように、人類の歴史は、限りなく広い神の心が展開しているのであって、我々も、歴史を学べば学ぶ程に、自己の小ささ、自己の狭さを知り、謙虚で、敬虔で、しかも寛大なる心を養うことが出来る。
(つづく)