「新時代の科学者によせて」(5) 天川貴之
では、心の世界を科学してゆくということは、具体的には、どういうことになるのであろうか。それは、心の法則の探究であり、従来、宗教で主に説かれてきた教えそのものの探究にもつながる。
例えば、聖書の山上の垂訓の一節に、「心清き者は幸いなるかな。汝は神を見るであろう。」という御教えがあるが、これは、一つの心の法則であるから、心を清く保たず、心が濁っている人は、どのような人であっても神を見ることは出来ないし、その一方、子供であっても、心が真に清く保たれていれば、神を見ることが出来るということであろう。
また、イエス・キリストと同時代に生きた者であっても、その心清くなければ真に神を見ることは出来なかったであろうし、現代に生きる者であっても、その心清ければ、神を見ることが出来るのである。
このように、この御教えは、すべての人の心を貫く普遍的なる心の法則を説かれたものであるということが出来る。
そして、これが「法則」であるならば、必ずや、科学が発展すれば、合理的に説明が出来、おそらくは、数式化、定式化出来、科学的に解明することが可能なものであろうと思う。
また、宗教そのものでなくとも、ニューソートの流れの中で、心の持ち方によって自己実現をすることが出来るという教えがあるが、これなどは、仏教では、古来より三界唯心所現説として既に現れていたものでもあるが、心の客観的な法則性というものを科学的に解明したものの一つである。
実際に、アメリカなどでは、数多くの同じような心の法則を説く思想家が輩出して、実際にその法則を実践した数多くの経営者達は、その法則が真実であったことを証している。
その実証例を科学的に検討してみても、どうしてもそこに不動の法則があり、その法則に基づいて、合理的に現象が起こっているとしか説明出来ないのである。
(つづく)